すきなもの雑記

話したいことを話したいだけ

まだ始まってないのにグレート・ギャツビーに首まで浸かっている話

月組のTHE  LAST PARTY(フィッツジェラルドを主人公にした話)のれこうみの芝居にしびれる

フィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャツビー月組で上演決定

→小説を読んでどっぷりなる

→映画版を見てさらに面白くなり、宝塚版と解釈違いを起こさないか心配になる(今ここ)

 

なぜグレート・ギャツビーアメリカ文学の傑作と言われているのか?

普段並行して歌舞伎を見ているので、この物語を読んだあと、歌舞伎に頻出する「因果」という概念が頭に浮かびました

「因果」をわかりやすく言うと「悪いことをした人はその報いを受ける」というもの

日本の古典芸能では「因果」は本人に限らず家族に向くことがあります。つまり親がした悪事の報いを子が受けたりするんですね。それが現代の作品に描かれる家族愛の対極にあるように思えて、非常に興味深いです

わかりやすい例が三人吉三

おとせは盗人の親が捨てた双子の弟と大人になって知らずに結ばれ、それを知った兄に惨殺される

 

国の違いはあれど、この考えがギャツビーのストーリーの底辺に横たわっています

ニックが一連の出来事を印象深く思っている理由として、ギャツビーという特異な人物に対しての親愛、そしてトムとデイジーが引き金をひいた死が、特権階級ゆえに彼らに何の報いももたらさなかったという虚しさが挙げられます

このタイトルをそのまま冠する映画は2種類あり1974版と2013版です

2013版は映像の美しさはあるものの現代的脚色やストーリーの改変、映像技術の粗さなどがあり、作品からナルシズムのような陶酔を感じます

1974版はまだ小説発表からそこまで年月が経っていないこともあり、当時の空気感が反映されていると感じます。ストーリーを丁寧になぞっているので文章の世界が忠実に映像になっていて感動しました

2013版では精神的に不安定なニックが更生のために過去を振り返る形で物語が進み、ラストは美しいロングアイランドで終わります。しかしこれだと物語としては中途半端に感じられます。

一方1974版。夫の愛人マートルをそうとは知らずひき逃げしたデイジーとトムはヨーロッパに移ろうとし、その直前にニックと再会します。小説のとおりです

2人はギャツビーとウィルソンが死んだことなど忘れたように生きている、ニックにも平然と握手を求めてきます

小説の冒頭にあるように、ニックはメンドクサイ人に好かれがちなお人好しなんです。お人好しだからギャツビーのことを忘れようとしている夫婦が理解できない。

物語はここで終わりますが、この夫婦そして娘が幸せになるのだろうかと考えさせられます。「女は馬鹿な方がいいから生まれた子が娘だと知って泣いた」とニックに漏らしたデイジーの言葉が暗示しているようです

そもそも、ギャツビーがそこまで執着したデイジーも彼が妄想の中で飾り付けた虚像に過ぎません

物語のヤマ場になるのはプラザホテルの一室。エアコンのないニューヨークの摩天楼で暑さにうだる豪華な部屋、というアンバランスな舞台でギャツビー一世一代の駆け引きが始まります

しかしそこでデイジーは煮えきらない。トムの傲慢さを知りながら目の前にぶら下げられたトムの優しさにすり寄ってしまう。マートルをひき逃げした自覚はあっても、一晩トムに打ち明けたら翌朝からは後ろめたさもなく生きられる都合のいい女。そして夫の浮気相手をそうとは知らず妻が殺す、浮気相手の本当の夫が妻の浮気相手を勘違いして殺す(吹き込むのは夫)という「因果」ができあがるのです

フィッツジェラルドは計算高くこの物語を書いたのか?おそらくそうではなく、直感的なバランスの産物なのではないでしょうか。プライベートにおけるゼルダとの関係が作品に独自の歩みをもたらし、それがきっかけでその後の人生の栄光と転落に苦しむことになったと。読者はそこまで物語にもう1つのベールを重ねながら読み進めることができます。

さて、ストーリーの奥深さとは別のベクトルで情景の美しさが際立っているのがこの作品の素晴らしいところです。

冒頭ニックがトムの屋敷を訪ね白いカーテンが風に揺れる午後。

ここは新旧両方の映画でも印象的に描かれています。パステル調の優しい色合いの室内で、原作では文字から、映画では映像から、それぞれ美しさを堪能できます

かと思えば煤けた炭鉱の町に眼鏡屋の大きな看板。ここに具体的な名前を持ってくるのがフィッツジェラルドのセンスなんでしょう。このシーンも印象的です。ちなみに新版はマートルだけが汚れていない綺麗な服を着ていてちょっと違和感を感じたりしました。

そしてマートルのアパート。ここだけは毒々しく退廃的に。

深夜のパーティ、灯台の灯りをつかもうとする人影、運び込まれ花だらけになるニックの家、夏の海、お屋敷のプール…まるで楽しかった夏休みの思い出のようで感傷を誘います

中でもギャツビーがお屋敷の棚からシャツを延々と引っ張り出すエピソード。仕立ての良いシャツに埋もれるギャツビーとデイジー。きれいに畳まれたものをぐちゃぐちゃにしていくさまは社交界道徳心の破壊という暗喩が感じ取れます

 

 

解釈違いと言いつつも、わたしはニック(語り手)のことは完全に演じる風間さんだと思って読んでました。ビジュアルではなく中の人の風間さんだと思って。本当におかしな話で、中の人の風間さんが女性なのは承知しているんだけど、こういうこと言いそう、こういうことしそう…と姿が脳裏に浮かぶんです

例えば女子プロゴルファーのジョーダンがニックのことを好きだという、でもそれは心を込めてじゃなく、風が吹くようにさらりとしたもので。ニックは恋愛のいざこざで東部に逃げてきたような状況なんだけど、「まあステータスのある綺麗な女に言い寄られると悪い気はしないな、キスでもしとくか」みたいな、あわよくばって感じ。そこが好き。でもペペルみたいな悪気はないんです。ニックはいいヤツなの。そこがダルレークとの違いですね

 

まだ配役が出てないのですが、ジョーダンは天紫珠李ちゃんだろうと思っていて、風間さんは珠李ちゃんのことをとても可愛がっているのが伝わってくるのでこのカップルで見たいですね

2人はきっちりした別れも描かれないんですが、風が吹きやんだらそこには何も残らないみたいな感じでそれはそれで良いんです。そもそも物語の終焉に向けて、ニックの気持ちはギャツビーに向いているのでジョーダンどころではない。ニックにとってジョーダンはその程度の女性。現代の作品なら雑だとか配慮が足りないとか言われそうですけど、その粗さなのか計算なのかが紙一重というのがこの作品の良さなんだと思います

 

ギャツビーを演じるれいこさんの一筋縄ではいかない所もギャツビーと重なるのが良いですよね。ニンだと思います。「川霧の橋」では川でしか本心を言えない幸次郎でしたよね。野望のためには危ないことも平気でする、だけど本当に大切なものの前では挙動不審になっちゃう二面性は難しい役どころかもしれませんが、愛すべきギャツビーを演じてくれると思います。

そして何より、トムを演じるちなつさんとのガチンコ勝負!正面切って愛する人を奪い合う関係って今までなかったですよね

ちなつさんはポーの一族でもはいからさんでも魅力的な役作りしてきていたのでメチャ楽しみ。

海ちゃんとは「出島小宇宙戦争」のデュエダンが素晴らしくて、ダンスのポテンシャルを引き出していました

配役が出るのが楽しみです